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新しい文学(文楽)

1 :始め:2006/05/20(土) 13:25:13
新しい文学は「文楽」のような気がする。
ピアノ張りに創作もキーボードだし、インターネットでも資料調べ
はスムーズになった。
音楽は、耳を澄ませているだけで、イイ気分になる。
文学にも同じことが言えるのではないだろうか。
新しい文学は、「文楽」のような気がする。(江戸時代の文楽じゃないです)

http://www7a.biglobe.ne.jp/~homehome-world


2 :始め:2006/05/20(土) 14:18:37
文学は、人間の幸福とは?を追求していくものだと思う。
では、幸福について極めた論文ができたら?

「文楽」が誕生すると思います。

僕の幸福論(自分では極めたと思ってる)載せますよ。
それほど長文ではないので。

3 :始め:2006/05/20(土) 14:20:26
<意見のシステム>

幸福には二種類ある。
一つは相対的幸福で、もう一つは絶対的幸福である。
相対的幸福には二種類ある。一つは物質的幸福でもう一つは精神的幸福である。
 物質的幸福というのは、金欲、性欲、名誉欲、権力欲などである。これらの幸福は一度それらの幸福を得たらすぐにそれらに満足できなくなる。
そしてまた次の幸福を求める、というふうにいつまでたっても満足できない。
 次に精神的幸福であるが、これは自分の心・感情を人に知ってもらう喜び、人の心・感情の動きを知る喜び、この二つである。
前者の幸福は例えば母親への強い思慕、誰もが持っている理想の母親像への思慕などであり、後者は、小さな子供や赤ちゃんの屈託のない振る舞い
を見て思わず微笑む、というような時の喜びである。これらの幸福とは自分という一人の人間が他者という一人の人間と同一化する喜びである。
ということは人間は孤独にならなければならない。しかしこの孤独というものは世間で言うものとは違う。絶対的孤独とでも呼ぶべきものである。
そしてこの孤独に耐えられなければ他者との同一感も味わえない。
だけれども多くの人が常に上の精神的幸福への強い願望を持っている。
しかしこのような幸福を叶えてくれる他人がいるだろうか。
自分の心・感情を理解してくれて、しかも子供のように屈託なく振る舞うことのできる人が。
このような人は絶対的孤独に耐えられる人である。
自分がこの広大な宇宙でたったひとりの人間という一つの区切られた小宇宙であることを受けとめられる人である。
しかしたとえこのような人がいたとしても精神的幸福と同時に絶対的孤独というものを味合わなくてはならず、結局プラスマイナス0である。
では幸福とは一体どこにあるのだろうか。
結局人生とは幸福と不幸の数は同じで、誰しも幸福にはなれないのだろうか。



4 :始め:2006/05/20(土) 14:22:46
ここで絶対的幸福が登場する。
これは簡単に言えば働く喜びである。
例えば山登りのことを例にとると、自分の力で汗を流して頂上に辿り着いた時の喜びと、
車か何かで登った時の喜びとは違うということである。
前者の場合の頂上に着いた時の思いは、純粋な喜びであり、またそれは一つの誇りになり、
最高の良き思い出となってくる。
しかし、後者の喜びは、一時的なものであり、すぐに吹き散ってしまう。
この違いは何だろう。
同じ頂上に立つのに。
これを説明するのに前者は山を登っている間、疲れる、という長い不幸を味わっているから
だ、というのは浅い見方である。
彼は無心で登っていったのだろう。
しかしそこには生命(or魂)の躍動があった。
そして頂上に立った時その険しい山道を歩いてきた生命(魂)の躍動を湧き上がる歓びとと
もに振り返るだろう。
このような幸福感、充実感が唯一の幸福である。
これ以外にはない。


5 :始め:2006/05/20(土) 14:24:18
それではこの絶対的幸福についてもう少し踏み込んで考えてみる。
さっきの例は山であったが頂上に登った時の幸福感はその山が高ければ高いほど、困難が
多ければ多いほど大きいだろう。
ではもっとも困難で険しい山とは何なのか。
それは前述の精神的幸福である。
それは絶対的な孤独という厳しい事実に耐えるという山路を登りつめることである。
それはほんの短い距離でしかないが困難を極める。
それゆえにその頂上たる同一感はあふれでてくる生命の充実感を伴うだろう。
これが最高の幸福である。

 しかしここに一つ問題点がある。
それは他の人々も幸せであるか、という点である。
何故ならば人は他者との同一感に立つ時、全宇宙の生命との同一感に立つものだからである。
不幸な人がいる。
このことを知らなければ幸せになれるのだが、同一感に立つ時同苦せざるを得ない。
それでは世界中の人々が幸せになるまで自分の人生を楽しむことはできないのだろうか。
いいや違う。例えば一隻の漁船が難破したとする。そしてそれが世界中に報道される。
世界中の人々はみんな悲しむべきだろうか。いいや違う。何隻かの船に救助に行かせれば
いいのだ。
要は方針を立てることだ。そしてその舵を代わりばんこに取ればいいのだ。
いい意味での楽観主義を持ち、楽しい社会を維持し、築き上げていこう。

6 :にっぽん文士 ◆m0yPyqc5MQ :2006/05/20(土) 15:28:13
 >>1は正解だと思うんだけど
(抽象文学の言語還元主義によるシニフィアンとシニフィエの分離再構築)
(または)
(大衆消費社会に適応したpop文学の一貫した傾向として)

そのあとにつづく下手くそな物体二元の幸福論がなんで出てきたのか一向にわからんw
もう文楽(ぶんらく)師匠に解説たのもーかなっ
ぷんぷんぷんぷんにこにこぷん

7 :始め:2006/05/21(日) 05:56:43
文学の一つのテーマとして「幸福とは?」を追求していくことはあるでしょ。
てことは、幸福論をある程度極めたら、一つの流れとして、新しい文学が誕生
することはあるんじゃないかな。
僕はそれを「文楽」と名付けてみた。
モデル品ならあるよ。
HPに載ってる。


8 :始め:2006/05/21(日) 06:02:15
スリンダー事件簿ってやつ
文楽の裏付けです。

9 :日本文士 ◆m0yPyqc5MQ :2006/05/21(日) 08:09:21
 君の考える文楽とは、「幸福感」が目的なわけだね。

だから幸福感とはどんなものか?

を一所懸命かんがえたわけだ。


えらいなあ
頭ナデナデしてあげたいくらいだ
もっともっとがんばりたまえ
応援するから

10 :始め:2006/05/21(日) 13:25:16
でも文学の一つの潮流が、「幸福とは何か?」を根源としていることは、否めないでしょ。
最近の文学は「幸福とは何か?」ていうより、自分の世界観を繰り広げることが多いように
見受けられる。
でも文学の一つの流れ、「幸福とは何か?」を追求していく流れは、消えない流れだと思う。
文学のいくつもある大きなテーマ、そのうちの一つの「幸福とは何か?」を解消したら、
「新しい文学」が誕生するかもしれない。
あり得ないかな。

11 :始め:2006/05/22(月) 05:01:15
「文楽」のモデル品は作った。
誰か確認してくれ。
スリンダー事件簿ってやつ。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~homehome-world


12 :吾輩は名無しである:2006/05/22(月) 05:31:28
みなさん騙されないで下さいよ。
僕が立てたスレじゃないですよ。

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